「剣道技術の過去・現在・未来」 金沢大学剣友会「千田杯」講演資料 H29.9
はじめにお断りしておきます。動画などは恐縮ですが、インターネットなどでお調べください。
1 「剣道」という用語の成立について資料を調べてみると,
❶元全日本剣道連盟会長庄子は『剣道百年』の中で「剣道の呼称」について以下のように記している「剣道」いう用語が法規上, 正式に学校教育に登場したのは明治44(1911)年であったことを提示している. これに先立ち, 明治15(1882)年に嘉納治五郎によって柔術から「柔道」が考案されたことにより講道館が発足し, 明治29(1896)年に「柔道」が学校体育の中に組み込まれていった. 嘉納の「柔道」の先導により, 剣術や撃剣が「剣道」へと改称され実施されるに至ったのである
❷大正8年(1919年)6月(約100年前)、大日本武徳会が「剣道試合ニ関スル心得」を制定した. 同年8月1日には同じく大日本武徳会が「武術」とあるものをすべて「武道」に改めるとする通知を出したことにより, 剣術および撃剣は「剣道」に, 柔術は柔道に, 弓術は弓道に統一された
2 明治期前後の撃剣・剣術
1)防具考案・技術について
中西忠蔵は1751-1764年竹具足を用いて竹刀打ち込み稽古を取り入れた(略写真)。中西の真意は型稽古の欠陥を補うため打ち合い稽古を取り入れて理業(理合)を合致させることにあった。その後、明治30年(1897年)頃から、町道場へも広まっていった。写真を見る限り、四木足や左右に開いた構えなので、現在のように気剣体の一致した攻防動作による打ち合いではなかったものと考えられる。この点に関しては後述著名剣士項で再度触れたいと思います。
2)技
各流派によって技の体系は数多くあるが、剣術の技の体系として広く世間に知られるようになったものは、1884年北辰一刀流千葉周作によって考案された「剣術68手 剣術名人法」である(略、表)。以後は、この剣術68手を基礎にして技の再編を行うことになる。明治44年(1911年)高野佐三郎は文部省令第26号で中学校に正課として剣道が許されたことを受け、千葉の68手を自分の眼を通して新たに手法50種を考え出したが、第二次世界大戦などの影響を受け剣道(武道全体)の活動自体が禁止されることとなった。しかし、戦後、熱心な剣道家などの働きにより昭和25年(1949年)2月剣道の代用的競技連盟として「全日本撓競技連盟」が結成された。その後昭和27年(1951)に学校におけるしない競技の実施に伴い(写真 第9回国体に公開競技として参加)新たに「対応の仕方によるしかけ技・応じ技体系」(略、表)が発表された。また、同時期昭和27年10月(1951年)には全日本剣道連盟が設立され再び剣道という用語が使われるようになった。
3)剣道家と稽古
明治以降の剣道を語る際、明治前後生まれの著名剣道家とその稽古振りについて理解しておくことがまずは必要と考え述べておきます。
大先輩は小野派一刀流高野佐三郎文久2年(1862)並びに北辰一刀流内藤高治文久3年(1863)神道無念流 中山博道明治4年(1871)を挙げることができます。次世代では、高野茂義 明治10年(1877)古賀恒吉明治16年(1883四高師範・天覧試合ベスト8)小川金之助明治17年(1884)持田盛二・中野宗助明治18年(1885)大麻勇二 明治20年(1887)堀正平明治21年(188四高師範 大日本剣道史著者)大島治喜太明治22年(1889相内先生の義理の父第二回天覧試合出場)羽賀準一 中島五郎蔵 明治41年(1908)、野間恒明治42年(1909)中倉清明治43年(1910中野八十二明治44年(1911)である。 *恵土は下線剣士との稽古あり
このうち、再興剣道界に最も大きな影響力を与えたのは、東の高等師範学校教授高野佐三郎並びに西の武道専門学校教授内藤高治と考えられる。
この両剣士が若い時の稽古模様は、未だ防具が発明されていない中で、もっぱら形稽古が主流であったと考えられる。その後両先生が概ね30歳~40歳前後で防具を着け竹刀を用いて打ち込み稽古をしたものと考えられが(世間ではボチボチ打ち込み稽古がはやり出していた)、その稽古模様は先に防具の考案の項で竹刀打ち込み稽古風景を示した上で見解を述べたが、以下剣士の述べているように(①~➂)、現代人が理解している「打ち込み」とは異なっていたと考えられます。
① 両先生よりも8歳年下の中山博道は型稽古と共に初期の打ち合い形式での修練を積
んだと考えられるのである。後日、後継者の中倉剣士が師の稽古について「現在のように一足一刀の間から大きく跳び込むような技はださなかった。足捌きも送り足ではなく、歩み足で、剣先を殺し、気を殺し。技を殺すいわゆる三殺法であった。それで中山先生の打ち方はというとやはり応じ技(恵土意見、中倉先生の左足から入っての右横面)や返し技が主体であった」と述べている。(中山博道先生口述 剣道虎の巻 平田研三監修20016 再編集中山尚夫P19)
② 中倉清は自ら振り返り、20歳前後の稽古は「左右の切り返しが中心」で、所謂地稽古は「突き」「横面」「足がらみ」「投げ」「組討ち」であった(鬼伝 中倉清烈剣譜p71)と 。尚、体力の有るうちは跳び込みを主に利用し 40歳すぎから歩み足が効果的である。(剣歴 第一回全日本剣道選手権大会二回戦負け。第二回 兵庫の中尾巌に準決勝で敗れ三位 因みに中倉先生が全日本剣道選手権大会で負けたのは新ルールが原因)。
➂剣道日本 1989 4月号対談で、井上正孝剣士は切り返しについて、師高野先生が右一本、左三本とか、右、左と不規則に打ったりしていたのを見た。木刀で頭や肩等を打たれ昏倒したそうです(井上正孝P18)。また、中島五郎蔵剣士は、ある時正面打ちから入って中山博道先生にしかられた(有信館では真っすぐ打つことはあまりなかった)。更に、羽賀準一剣士はメン、メン、ドウ、ドウを四回繰り返した(中島P17)。
なお、切り返しの原型は直心影流の一本目を採用した。それは右を打てば左へ返すものでであったが、切り返し単独の運動形態としてあったのではなく「打ち込み稽古」と一体でおこなわれたようである。単独としてみられるのは小関教政1910年の本からである(中村民雄著 剣道事典)
因みに剣聖山岡鉄舟の高弟で金沢大学ゆかりの香川善次郎1848年(嘉永元年高野佐三郎よりも15年先輩)や香川剣士の立切り稽古を彼の「覚え書き」からその稽古振りを紹介すれば、一日二百回の試合を朝の六時から10の剣士と入れ替わり立ち替わり午後五時半実施した。組打ちあり体当りありであった。
4)試合
明治期前後の剣道家や技、稽古内容の一部を理解したところで、昭和初期に開催された昭和天覧試合(中島、羽賀、他一二)におれる発現技術を鑑賞してみましょう。
――――――――――――――――略、動画鑑賞 ――――――――――――――――
以上、明治前後の稽古・試合を小括すれば →→明治期の大先輩剣士らの稽古内容(技術)は、足がらみ、体当り、組討ち、投げ、横面等多彩であった。また足捌きは歩み足が主であり、切り返しはというと、左右二回ずつ打つなどである。一方天覧試合は三本勝負であるが、動画を見ての通り現在のように気剣体一致した打突動作や残心があるものではなかった。むしろ、自己の技を誇張するような態度が多くみられた。私の推察ではこの時期まだまだササキ原健吉の撃剣興行の影響を受けての試合であったものと思います。
―――――昭和天覧試合以後、残念ながら日中戦争昭和(12年1937)や第二次世界大戦(昭和16年1941)により剣道は衰退・中断そして武道禁止しとなった――――
3 戦後の剣道
1) 撓競技
敗戦後、剣道の熱心な愛好家により昭和25年3月に「全日本撓競技連盟」が許可され、同年名古屋、翌年東京で撓競技大会が開催された。その後、昭和27年4月文科省は学校における中・高・大学の正科として撓競技を公認した。それに伴い新しい技体系(前出し対応の仕方による体系)が示されたのである。 なお、撓競技で①使われた竹刀は全長の三分の一を16割、中央を16本、手前を8本としその全長を布か皮で包んだ。②防具は布製のものとした。 ➂シャツ・ズボンを使用。④一定の区画内で競技を行う。⑤一定時間の得点数で決めた。⑥足がらみ、体当り、自然発生以外の掛け声を禁止した。反則行為を規定した。⑦公平性を保つため三人制の多数決制とした。(略、本城中学校剣道部優勝記念写真・同級生山瀬)
2) 剣道復活
昭和27年10月全日本剣道連盟が結成され、翌年昭和28年11月蔵前国技館で第一回全日本剣道選手権大会が開催された。愛知県のササキバラ正剣士が優勝した。
なお、剣道の代替的撓競技連盟は剣道連盟と協議の上、剣道連盟として一本化された。
正式に許可された剣道はその後国体にも参加できるようになり(全国総体は剣道としない競技との二本立て)、皆さんがご承知のように現在のように広く剣道が発展してきたのである。
ここに、昭和中期の剣豪らの映像があります。明治期前後の剣道技術との違いを鑑賞してみましょう――――――――略、動画―――――――――――――――――――――
(伊保対西、中倉、鈴木幾雄折り敷胴打ち持田、中野八十二、)
因みに、天覧試合出場剣士(含む佐藤卯吉、三橋秀三 渡辺敏雄ら)と恵土との稽古感想をのべてみます。まずは、
⦿小川金之助 明治17年 愛知県 武専教授 皇宮警察本部師範 東レイ剣道部師範 範士十段
⦿大麻勇二 明治20年 熊本県 武徳会熊本県支部教師・佐賀県剣道教師 十段 初代全日本道場連盟会長
⦿中倉清 明治44年鹿児島県 中山博道の有信館入門 関東管区警察学校教授 一橋大学、中央大学師範 範士九段
⦿中野八十二 新潟県 明治44年 東京高等師範学校教授 昭和35年八段選抜優勝
範士九段
佐藤卯吉、三橋秀三、渡辺敏雄 等。
-―――――――――――恵土感想小括―――――――――――――――――――
総括
一口で言えば、敵から身を守るための技術から打ち合い・試合を通じて人を生かす道へと剣道技術は変容してきたと言えよう。
その上で、剣道が世界に広まっていく時にあたり、未来の日本剣道の技術は、打ち合い・試合を通じて人を生かす道を学ぶものでなければならないと考えます。
参考資料その1
⦿第一回 天覧試合 昭和4年1929年 宮内省皇宮警察部が主催した。昭和天皇のほか皇族、大臣、陸軍大将、警視総監、府県知などの要人が臨席し傍観を許可された者数千人。
演武は「形」各府県及び外地の代表者51名
指定の部」「試合」 指定選士詮衡委員、高野佐三郎、内藤高治、中山博道、門奈正ら
六名により32名選出。8リーグ戦からトーナメント方式へ
準決勝 大麻勇次ココ対メン小川金之助 高野茂義コメ対堀田捨次郎
持田盛二ドコ対コ古賀恒吉 植田平太郎メンド対ド堀正平
準決勝 高野メンコ対コ大麻 持田コツキ対コ植田
決勝 持田コド対高野 *下線部分実際に恵土が稽古した先生方
⦿第二回天覧試合 昭和9年 1934
前回範士が出場したことに批判があり、範士の模範試合が行われた。
植田平太郎対大島治喜太(相内先生の奥様の父武専教授) 小川金之助対持田盛二、中野宗助対斎村五郎、中山博道対高野茂義
準決勝 山本忠次郎メンド対コ江口卯吉 白土留彦メンメン対ド宮崎茂三郎
決勝 山本コメン対ド宮崎
⦿第三回 天覧試合 決勝 増田ココ対津崎
以上