佐藤卯吉範士の勝負論 

 

明治、大正、昭和の名人と称せられた東京高師(現在の筑波大学の前身)教授高野佐三郎範士の一番弟子・同僚として著名な佐藤先生の「剣道の勝負」注)についての論考を紹介したいと思います。NPOメンバーには前期報告書で「剣道の勝負」を紹介しましたが、同じテーマ「剣道の勝負」で書かれていいますが、内容が多少異なるので掲載いたします。

 

 世人いう。「剣道は勝負に重きをおくべきでない。よろしく勝負を超越しなければならぬ。勝ことのみ努力するは面白くない」と。

この言葉はある意味において正しいことである。けれどもまた考えてみると、徹頭徹尾賛成というわけにはいかぬ。元来、剣道は勝負をもって形式の主なるものとしている。その剣道から勝負の形式を除き去ったならば、その後に何ものが残るだろうか。無論勝負は剣道の究極より言えば末の問題であるかもしれないけれども、その究極の理想に到達するには、ぜひこの勝負の形式を踏まなければならぬ。剣道は勝負を争うところに意義もあるし、修養的価値もあるのである。もし剣道から勝負を取り去るときは、すでに剣道でないほかの意味のものにならなければならぬ。形式を無視した剣道は直接に無形の精神的のものを指すのであって、必ずしも剣道たる名称に限られるものではない。

剣道の剣道たるゆえんは定められた形式を通じてその精神的の内容を眺めたところにある。

 なるほど勝負の末にのみ走るは弊害であるが、その弊害に陥りやすき危険なものを価値転換して、害を転じて益となすところにおおいなる意義があるのである。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」である。興味という点より言っても、我を忘れて一生懸命になればなるほど興味は多いもので、無我の状態に達してのちにこれを反省するとき興味はもっとも深い。無我の状態は直面する危険の程度が高ければ高いほどその度が強い。したがって愉快の程度も高いもののようである。すなわち危険の多いものは興味の多いのを普通とする。興味の多いものは危険を伴いやすい、有益なるものは、一歩あやまれば有害となりがちである。その危険あるいは有害なる方面のみをみて、これを転換して有益にして価値あるものたらしめることを忘れるのはいまだ剣道を知るものという事は出来ない。元来剣道は発生原因よりみても、剣を持って相対して打ち闘うさいの純真な気分に出発して、これを我々が平素の修養の手段として、取り入れたものであるから危険の多いのは自然のことである。とはいえ、第三者の考えほど危険のないことも事実であるし、試合当事者は何ら危険を感じない。勝負は争うけれども動物的に争うものではない。剣道は礼において始まり礼において終わる。そのところに重要な意義がある。真に剣道に達したならば一分一厘の無理も許さない。剣道は形式を勝負にとっているけれども目的はより以上のものにある。勝負の形式を踏む間に人生の道を学び、真に生きる方法を悟るものである。(注、近代剣道名著大系第九巻より引用

 

 佐藤先生の教えは全くその通りと思います。勝利を目指して一生懸命努力することが剣道を楽しむ秘訣であり、勝利を目指さないのは真に剣道を楽しむことも人間としても成長が出来ないと思うわけです。