形を学ぶ意義
形稽古は①剣道観を広め深める、②刃筋の方向が理解できる、③技術上の癖を取り除くことができる、④正しい姿勢が身につく、⑤間合いに明るくなる、⑥気位が高くなるなどの効果があると説かれています。しかし多くの日本の剣道愛好家は日頃形稽古をすることは稀です。理由として、時間を掛けたわりには竹刀稽古に効果が期待できなと考えているものと拝察しています。
それは、形を打つには長さ102cmの木刀を用いる。一方、竹刀稽古で用いる竹刀は大人で118cm前後、その差は約16cmあります。したがって間合いも大きく異なります。次に足さばきですが、前者はすり足、後者は踏み込み足(跳び込み足)です。また、木刀の握りは楕円形だが、竹刀は円形です。最も違うのはいわゆる打突時の「手の内」です。前者は打突部直前に、高速で振り下ろされた木刀を止めなます。一方、後者は高速で振り下ろされた竹刀のスピードを落とすことなく面などの打撃部に当てます。したがって、前者は振り下ろした竹刀スピードを打突部直前で左右の手の内を握り締め止めなくてはなりませんが、後者は逆に右手を緩めなくてはなりません。このように形稽古と竹刀稽古ではいろいろと相違があるにもかかわらず、巻頭のような効果を説き、かつ段受験に際して形を課しているのは、どのような意義・意味があるのか、著名剣道家の形に対する見解を見てみます。
日本剣道形制定の主査委員を務めた高野佐三郎範士の助手として仕えた佐藤卯吉先生は、「一本目における打太刀の大きく正面へ打ち込み来るを、仕太刀は体を後方に退いて、これを外すと共に、打太刀の正面を打つ、されど初めより斯くのごとき順序なればればとて、外形上の形式を踏むのみにては、意味をなさず、打太刀の正面を打つまでには内面的に仕太刀の構えを窺い見て、いずれに打ち込むべき隙あらざるやと心を配り、守備厳重なるを見ては、遂に約束どうり正面を打つ、仕太刀は又、打太刀がいずれのところに打ち込み来るも、充分防ぎ且つ応じ得る様準備して然る後、打太刀の正面打ちを外して、その正面を撃つということになり「形」は深き意味と生命とを有するに至る」と形の学び方・理解の仕方を説いています。(体育と競技、第六巻1号、P26 昭和2年1月)
また、剣聖と言われた高野佐三郎範士は「形精神は、打つ部位は一応の約束ごとであって、剣道形を実施する時の心得や技遣いの本意は”どこからでもこい””どこに来ても応ずる”という千変万化の応用にある」と説いています(大矢稔 大日本帝国剣道形「加注の原案」の分析的考察 武道学会発表資料よりP8)
興味を引く逸話は、故井上正孝先生(元大阪修道館館長・元東海大学教授)が、昭和15年橿原神宮(かしはら)奉納剣道大会で打太刀佐藤卯吉先生、仕太刀高野弘正先生の演武を拝見した時のことです。「二本目で佐藤先生が小手を打って一歩下がった、その下がり方があまりに大きかったことから、高野先生はすかさず諸手左上段をとって残心を示された」。井上先生は形終了後、通常の手順と異なっていることから、演武者の高野先生にその違いを尋ねたところ「形は生きものぞ!」といわれた。後日、その真意が理解できたことを吐露しています。曰く「やっぱり剣道形は気と間の修練であり、臨機応変の生きた対応こそ、まさに形の生命として尊ばれるべきものであると「井上著 日本剣道形の理論と実際」
以上、著名な先生方の形に対する見解と逸話を取り上げました。そこから学ぶことは、形稽古は約束事であるが、形実施に当たって、相手の思惑・戦術などを瞬時にかつ的確によむと共にその対応策を具現化すすること、すなわち”先先の先”で対応することを学ばなければならないと言う示唆と受け止めています。
秀でた競技力や予測能力を身つけるためにも、また剣道観を深めるためにも、形稽古を昇段審査直前のみ行うのではなく、ヨーロッパ剣士が日頃から形に時間を割いて練習を行っているように、日常的に行う必要性があると考えています。
因みに、高野佐三郎 著「剣道」に“鎖鉢金・鎖籠手”をつけた形稽古写真が掲載されています(別紙)。鎖鉢金・鎖籠手を用いての形稽古に対して皆様がどのように推敲するか興味があるところです。